エビデンスを語るということ——なぜ「最新エビデンス」ほど危うく見えるのか
このブログでは、この1年間、医療や健康に関する情報を「エビデンスがあるかどうか」ではなく、「そのエビデンスはどのような条件で成立しているのか」という視点から見直してきました。一見もっともらしく見える医療情報ほど、前提や限界が語られないまま流通していることへの違和感が、出発点でした。
テレビやインターネットを見ていると、「これを食べるとがんになる」「これを摂れば病気が防げる」といった断定的な医療情報が日常的に流れてきます。多くは論文や疫学研究を根拠に掲げ、「エビデンスがある」という言葉で正当化されます。こうした発信には、医師や大学教授といった専門家が登場することも少なくありません。しかし、そこで示されているのは、ほとんどが結果だけを切り取ったエビデンスです。その研究がどのような仮説に基づき、どの集団を対象にし、どの程度まで一般化できるのかといった前提条件は、ほぼ語られません。
本来、エビデンスとは背景の理論や限界とセットで理解されるべきものです。医師などの専門家であれば、人間の身体が単一の因子で説明できないことは十分に理解しています。栄養、代謝、免疫、炎症、生活習慣が複雑に絡み合う中で、特定の食品や介入だけを「良い」「悪い」と断定することが、いかに乱暴であるかは明らかです。それでも結果だけを強調した発信が繰り返される背景には、医療情報が社会に流通する構造的な問題があります。
この構造がはっきりと可視化されたのが、新型コロナウイルスワクチンをめぐる情報発信でした。ここで述べたいのは、ワクチンそのものの是非ではなく、不確実性をどう語るかという専門家の態度の問題です。新しい技術を用いた新型ワクチンである以上、中長期的な安全性や有効性には不確実性が残るのが当然です。本来であれば、「現時点で分かっていること」と「まだ分かっていないこと」を分けて説明すべきでした。ところが実際には、著名な教授や専門家が、メディアで積極的に接種を勧め、「安全性は確立されている」「打たない理由はない」といった断定的な発言を繰り返しました。これは特定の専門家個人の問題だけでなく、断定的で分かりやすいメッセージほど評価され、拡散されやすい社会構造の影響も大きいと考えられます。しかし、本当なら発信力の強い立場にある専門家ほど、政治家や実業家の発言とは異なる影響の大きさを自覚する必要があるのではないでしょうか?マスコミでは発言の細かな留保は切り落とされ、「専門家がこう言った」という形で社会に伝わります。その影響力の大きさを考えれば、沈黙や慎重な言葉選びも、時に重要な専門的判断です。
また、ここで見落とされがちなのがメディアに出ない誠実な専門家の存在です。エビデンスの限界や理論的背景を丁寧に説明し、「まだ分からない」と正直に語る専門家ほど、短いコメントや見出しには向きません。その結果、そうした姿勢は可視化されず、評価もされにくい。一方で、最新の研究結果を単純化して語る発信は、分かりやすさゆえに注目を集めます。この逆転現象こそが、私が「最新エビデンスほど危うい」と感じられる理由の一つです。最新の研究ほど検証の蓄積が少なく、理論的整理も未成熟であるにもかかわらず、「新しい」「最先端」という言葉とともに強いメッセージとして消費されてしまう。そこでは、時間をかけて慎重に考察する姿勢よりも、即効性のある結論が優先されます。そのような傾向は、マスコミだけではなく専門家の集まる学術の世界でも広がっているように感じます。日本の科学界全体としても、このような「結論を急ぐ風潮」が広がってはいないでしょうか。もしそうだとすれば、それが日本発の学術論文の質の低下と無関係だとは言い切れないように思われます。
医学は、不確実性と向き合い続ける学問です。最新エビデンスを否定する必要はありません。しかし、それを絶対視し、結果だけを振りかざすことほど、医学の本質から遠い行為もありません。エビデンスの裏側にある理論、前提、限界を語ること。そして、安易に断定しないこと。その姿勢こそが、専門家がそして医学という科学全体が社会から本当に信頼されるための条件ではないかと私は考えています。今後は、こうした「エビデンスの裏側」をもう少し腰を据えて書ける場として、発信の軸足を移していく予定です。















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